【ブッダ最後のことば】正しい教えは滅びない

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ブッダ「最後の旅」を描いたストーリー

今回は、佐々木閑さんの著書「ブッダ最後のことば」をご紹介します。

この本は、2015年4月に放送されたNHK100分de名著のテキストを底本として収録されています。
佐々木閑さんは、京都大学工学部および文学部哲学科仏教学専攻を卒業され米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て現在は、真宗高田派の僧侶であり花園大学教授をされています。

お釈迦様のお言葉についてシンプルにわかる本は無いものか?と探していたところこの本が目とまりました。150ページほどの文庫本でちょうど読みやすそうだなと思い手に取りました。

読み進めると、一人の人間としてのブッダの人となり、そしてブッダの教えについて、ブッダの最後の旅としてストーリー仕立てに展開されていて非常に面白い読み物になっています。また、釈迦の涅槃経と大乗の涅槃経の違いについて、シンプルにわかりやすく解説してくれています。そして今回この本に巡り合えたことで自分なりに仏教の捉え方をまとめるいい機会にもなりました。

今回も、特にここは重要だと私なりに感じたエッセンスと抜粋してそのまま取り上げました。
少々長くなりましたが、最後までお付き合いください。

ブッダの一生

ブッダは、今から約2500年前の紀元前565年ごろ、インド北部の王家に生まれます。幼少のころは何不自由なく暮らしていたと言います。

しかし成長するにつれ、人間の生、老、病、死の苦しみを知り、29歳で出家します。最初は断食などの苦行を行いましたが一向に苦しみは消えません。そこで方向転換し心の修行に励むことになります。

35歳になったとき、菩提樹の下で悟りを開き、人々に教えを説くため旅に出ます。その後、数多くの教えを残し80歳になったブッダはクシナーラという地で亡くなります。

このブッダの最後のストーリーは涅槃経(ニカーヤ)というお経で描かれています。
ブッダの旅に随行していた弟子のアーナンダが500人の出家仲間の前で、彼が覚えていたブッダの言葉を口出し、仲間が口伝えで各地に伝承しまた。それから300~400年ほどたつと文字文化が定着し、このブッダの言葉を記すようになったのです。これがお経です。

涅槃、輪廻、三宝

「涅槃」とは、①悟りを開くことと、②死。この二つのことを表しています。
ここで言う「死」は二度と生まれ変わることのない完全なる消滅を意味します。

仏教では、「輪廻」という言葉があります。命あるものは死んでも六道のいずれかの領域に生まれ変わる。だから涅槃に入らないと生の苦しみからは逃れられないという考え方があります。
六道(りくどう)とは、以下の六段階のことを言います。

  • ①天道   神々
  • ②人道   人間
  • ③修羅道  悪しき神々
  • ④畜生道  牛馬などの動物
  • ⑤餓鬼道  飢餓などで苦しみ続ける生き物
  • ⑥地獄道  ひたすら苦しむ恐ろしい状態

さらに、仏教には絶対的な定義があります。
それが、「三宝」です。

  • ①仏  仏とはブッダのこと
  • ②法  法とはブッダの教え
  • ③僧  僧とは修行のための組織であるサンガを意味します。

この三宝を信頼して生きていれば涅槃に入れるとブッダは言います。
ですから、仏教とは、ブッダを信頼しブッダの教えに従って修行者がサンガを作って修行生活を送っている状態のことなのです。

「修行」とは毎日少しずつでも自分で努力して煩悩を消していく実践的な生活スタイルです。
そして「サンガ」とはこれを実践するための組織の維持管理システムなのです。

ブッダの偉大さを伝えるエピソード

涅槃経の前半はブッダの旅行記のような内容となっています。あちこちの村に立ち寄って説法をします。

パータリー村での説法では、「戒を犯す者の禍い、戒を守る者の利点」について語ります。
「戒」とは仏教信者が守るべき生活の中の心構えです。戒を犯す者はこんな禍が起こると言います。

  1. 放逸のせいで大いに財を失う
  2. 悪い評判がたつ
  3. どのような人たちの集会に参加してもびくびくする
  4. 精神が錯乱して死ぬ
  5. 死んだ後、地獄に生まれる

ナーディカ村での説法では、法の鏡について語ります。
先に取り上げた「三宝」を信頼して生きていれば涅槃に入れる。と言いました。

このほかにも、各地で行われたブッダの偉大さを伝える説法や出来事が涅槃経には書かれています。

そして、ペールヴァ村で雨安居した時に病気になり自らの死期を悟るのです。

涅槃経のクライマックス

涅槃経の後半はブッダのクライマックスとして本格的な描写がされています。

一番弟子だったアーナンダが死期が近いブッダに質問します。
「指導者がいなくなった時私たちは何を拠り所にして道を歩めばいいのでしょうか?」

ブッダはこう答えます。
自分自身ブッダの教え、この二つだけを拠り所とせよ」
この教えは、「自州法州」そして仏教語としてよく知られる「自灯明法灯明」につながります。

釈迦の仏教は外部の絶対存在にすべてをゆだねるような「信仰の世界」ではありません。
自分の外側に存在する「なにか」を丸ごと信じ、そこに救済を求めるものでもありません。

一神教のような全知全能の救済者が助けてくれるわけではない、「自分を拠り所にせよ」「自分で何とかせよ」と言っているのです。

仏教とは、一人の人間ブッダが説き残したそのコトバを信頼する宗教であり、しかもそのコトバを床の間に飾って崇めるのではなく、コトバの指示に従って自分自身で努力してかなくてはならない宗教です。

仏教の本義は「自己鍛錬の道」なのです。

日常の修行は、間違った見方をリセットし正しい見方に共生する「四念処」を修行法としています。
少し私なりの解釈で短くすると、あらゆる事に執着しないという考え方のように感じます。

  • 身:人の肉体に執着しない
  • 受:まわりの楽に執着しない
  • 心:自分の心に執着しない
  • 法:自分という存在に執着しない → これは有名な「諸法無我」に通じます。

諸行無常を姿で示す

ブッダはチャーパーラチェーティヤの地で悪魔に取りつかれ、涅槃に入るまでの余命三か月を悟ることになります。その後ブッダは死ぬまでの間、精力的に弟子たちを集めて教えを説き始めます。
重閣講堂という建物に集合した弟子たちに悟りへの禅ステップである「三十七菩提文法」を語ります。

  • 四念処(しねんじょ)  間違った見方をリセットし正しい見方に矯正する修行
  • 四正勤(ししょうごん) 四つの正しい努力
  • 四神足(しじんそく)  神通力を得るための四つの修行
  • 五根(ごこん)     悟りに至るための高度な五つの能力を得るための修行
  • 五力(ごりき)     悟りに至るための高度な五つの行動力を得るための修行
  • 七覚支(しちかくし)  悟りの知恵を助けるための修行
  • 八正道(はっしょうどう)八つの正しい行い

このなかで最後の「八正道」は仏教の基本的な教えとして非常に重要です。

  • 正見(しょうげん)    正しいものの見方
  • 正思惟(しょうしゆい)  正しい考え方
  • 正語(しょうご)     正しい言葉
  • 正業(しょうごう)    正しい行い
  • 正命(しょうみょう)   正しい生活
  • 正精進(しょうしょうじん)正しい努力
  • 正念(しょうねん)    正しい自覚
  • 正定(しょうじょう)   正しい瞑想

この「八正道」は、煩悩を消滅させるための具体的な八つの道のことで、「自分中心の誤った考え方を捨てて、この世のありさまを正しくありのままに見る」ための日々の生活方法です。これを守っていれば、悟りに到達できると言っているのです。

利他には二つの意味がある

ブッダは、重閣講堂でこのようにも語っています。

「三十七菩提分法は、世間の人々の利益と安楽に役立つ」

本来、仏道修業は自分の内部にある煩悩を消し去るために行うのであって、他の人を助けるのが目的ではありません。しかし、自分が修行している姿を見せることが多くの人の利益と安楽に役立つと言っているのです。このことによりブッダの言う「慈悲」が表されています。

一方で、大乗仏教では「自己犠牲が慈悲の精神だ」と捉えられるようになります。

どちらも「利他」という言葉で一括りにされています。

これは私見ですが、ブッダの利他は「自己中心的利他」であり自分のための修行が人のためになっている。自己犠牲を払って行う利他よりもこのほうが凡人には継続できそうな気がします。

涅槃経のストーリーに戻ります。
ブッダは、パーヴァー村でチュンダという鍛冶屋から食事をふるまわれたとき食中毒を起こします。そして、ブッダは、「今夜、クシナーラーのウパヴァッタナにあるサーラ林の日本並んだ木のところで私は涅槃に入ろう」と言い死の準備をします。これが平家物語にも出てくる「沙羅双樹」のことです。

そしてブッダは死の間際に言います。

「私が説いた教えを実践してくれ、それが一番の供養になる。」
「もろもろのことがらは過ぎ去っていく。」 これはもちろん諸行無常のことです。
「放っておくと時間はどんどん過ぎ去ってしまう。心して修行に励みなさい。」

そして、ブッダは瞑想の度合いを高めたり低めたり、何度か行き来したのちに第四禅というレベルに入り息を引き取り涅槃に入ります。

ブッダが死の間際に弟子たちに語ったのと同じように、私たちの一生も「死」が人生の総決算です。
死ぬ間際になって急に人生を立派にしたり、やりたいことを急にやりだしたりしても無理です。
死ぬことを意識していない日常の毎日が人生を形作っているのであり、私たちの価値を決めている。
ということを思えば毎日が死の準備でもあります。

大乗仏教の涅槃経

ブッダの死後、独自の解釈や脚色が加わり、インドでは大乗仏教という新しいタイプの仏教が生まれました。「般若心経」「法華経」「阿弥陀経」がそうです。

釈迦の仏教の目的は、出家してサンガに入り、ひたすら修行することで心の煩悩を消し悟りを開くことにあります。

大乗仏教は、出家して修行しなくても外部の不思議なパワーの存在を感じ取り日常生活で正しくいきていけば自分がブッダになることができます。

そして大乗仏教の涅槃経は、本来のブッダの教えを根底からひっくりかえす異なる主張を唱えます。

「ブッダは本当は涅槃に入っていない。ブッダは永遠の存在である。」ブッダはいつの世にも我々と共にある。「如来常住」という考え方です。大乗仏教では「諸行無常」にブッダを含めていないのです。

釈迦の仏教の基本である「サンガ」を形成する修行集団から転じて、広大な信仰の教団へと変容していく中で生み出された新たな救済の道の考え方です。

釈迦の仏教は、ブッダの弟子として出家して修行により悟りを開くことを目的としますが、ブッダになることはできず、悟りを開くと阿羅漢という状態になります。

一方で、大乗仏教は、出家しなくても日常生活で悟りを開くことができ、自分自身がブッダになることができ、誰でもブッダへの道が開かれています。

また、大乗仏教では、全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している。ブッダは私たちとともにある。という思想を持っています。これを、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)と言います。

現在の日本に広まった仏教の多くは、この大乗仏教の思想をもとにしています。

釈迦の仏教の本質

釈迦の仏教の本質は、一神教でみられれるような不思議な存在を信じたり拝んだり祈ったりすることではなく、教えに従った正しい生活の中に身を置き、自分自身を深く見つめ煩悩を消していくことにあります。

釈迦の仏教は、人知を超えた不思議な力に頼ろうとする絶対的信仰ではなく、心の内側に目を向け努力による自己改革を目指す、自己鍛錬システムなのです。

著者の佐々木さんは、こういいます。

目に見えない不思議な力に救済を求めずに、自分の力でなんとかする。というところは、現代人にマッチしていて現代の科学的世界観と調和します。

昔ならば素直に信じることができた超越存在も通用しなくなってきた。つまりは実はその存在も私たちの心の中にあると解釈せざるを得ない。

釈迦の仏教は初めから科学的視点と同一平面上に設定されていました。

ここまでこの本を読んで、私が共感できるのは釈迦の仏教です。大きな力にすがって救いを求めるのではなく、自己研鑽し自分の力で幸せをつかんでいく、その過程も幸せそのものである。という生き方が本来の姿なんじゃないかなと思います。

ですが、出家するのかと言えばそうではありませんし、サラリーマンの立場を捨ててまで修行に打ち込むことはしないでしょう。せいぜい、日々の仕事や生活を修行と見立てて精進していくことぐらいしかできないと思います。

だから、みんなそれぞれ、どっちがいいとか言わず、釈迦の仏教と大乗仏教の良いとこ取りで自分なりの仏教観を持てばいいんじゃないでしょうか。

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