一言一言に救いがある 道元禅師の言葉

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道元禅師のことばから学ぶ現代を生きる指針

今回は、公方俊良さんの著書「道元禅師の言葉」をご紹介します。

公方俊良さんは、1941年京都生まれで中央仏教学院を卒業。現在は敦実親王菩提寺・相乗宗本山蒼竜寺第四十一世貫主でいらっしゃいます。檀家を持たず、講演と著書による伝道のみで寺院を護持し、社会教化に勤めていらしゃる僧侶です。

この本は、日本における曹洞宗の開祖である道元禅師の教えが記されている「正法眼蔵随聞記」から人生の指針となる言葉をとりだし公方俊良さんが解説されています。

道元禅師の不動の教えには、混迷が深まる現代にあって、確たる生き方を貫くための指針があります。

本書にある、44の教えの中から特に感銘を受けた4つの教えをご紹介します。

しがみつかないで生きてみる

道元禅師が言われた。

我執を捨て、先人の教えに随えば道は開ける

1つのことに打ち込み、わき目もふらずに熱中していくには、自分の心の中の執我を捨て去り、先人の教えに素直に学ぶことである。

業を習い、その義を守るには、我執を捨て、教えに随うことである。そのためには欲をなくすことであり、欲をなくすには、自分というものを意識しないことである。自分を意識しないためにはあらゆるものは無常であることを知ることで、これこそが第一に心すべきことである。
自分を意識しないためには、人に良く思われたいと思う気持ちをなくすことである。次第に我執を捨て、先人の教えに学んでいけば、自分の道に打ち込むことができる。

我執には以下の4つがある

  • 我見 : 自分のコセコセしたものの見方・考え方
  • 我慢 : うぬぼれ
  • 我利 : 自分だけの欲得にしがみつくこと
  • 我欲 : 自分の欲望をゴリ押しすること

我執を離れるには、無常であるという仏教の根本教理「三宝印」を知ること。

  • 諸行無常(しょぎょうむじょう) : あらゆるものは移り変わるということ
  • 諸法無我(しょほうむが)    : あらゆるものは実態がないということ
  • 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) : 心の安らぎの中に真実の世界があるということ

すなわち、金を儲けたい、財をきずきたい、快楽を得たいと思っても、やがて老い、病んで、死んでいく身であり、得たものは、やがてなくなる実体のない虚ろで空しいものであるということを、腹の底から認識できたとき、人生が開けてくるのだ。

人生で最も大切なものは、自分は人生をどう生きるかという「ロマン」である。ロマンや志、使命感、目標といった確たるものがあれば、その実現に努力するだけで満ち足りていて、人生の生きがいや充実感が得られるものである。自我に執着し欲を募らせるのは、ロマンという目的がなく、欲という手段を目的と混同するからである。

貧富は時の運と心得るとよい。

「究める」ことに無心になってみる

道元禅師が言われた。

人の愚かさは、志の至らないことである。
今夜限り、明日限りの命であると常に思いをなして、生きている間に悟りを開きたいと志をたて、一心に打ち込めば、悟りを開くことができる。

いかに才知に秀れようとも、志を持って努力することがなかったら、悟りを開くことができず、再び苦しみの人生を繰り返すことになる。これこそ愚かである。一見、愚鈍に見えても、志を持ち、志を達成すべく努力する人は、やがて志が至る。これこそ智慧ある人といえよう。

釈尊の弟子に、周利槃特という人がいた。このひとは釈尊の説かれた言葉もりかいできないほどで、人々から愚鈍な男とさげすまされていた。しかし、釈尊は、槃特の純真さを高く評価され、何とか悟りを開かせてやろうと思われた。

ちょうど夏の九十日間の修行が始まるときであった。釈尊は槃特に一枚の布切れを渡され、「この九十日間、ここで修行する人々の履物を、この布でふき清めなさい」と申し渡された。

槃特は、釈尊の言われたとおり、毎日毎日、一日も欠かさず、人々の履物の汚れをふき清めていった。

心をこめて一生懸命にふき清めていくうちに、いつの間にか自分の心まで清められていたのである。ついに九十日目の夏安居(げあんご)が終わろうとするとき、槃特は悟りを得ることができたのであった。

槃特を愚鈍だと笑いものにしていた他の多くの修行者たちは、夏安吾が過ぎても悟ることはできず、志一筋に生きる槃特の純真さに脱帽したのであった。

このように、志をたて、切に修行すれば、必ず悟りを開くことができるのである。

「欲得」に惑わされず、真実を見る目を養ってみる

道元禅師が言われた。

学人が心すべきことは、我見を離れることである。我見を離れるとは自分のことに執着しないことだ。たとえ先賢の教えであって、鉄石の法則のように思われるものでも、それに執われれば、万年たっても仏道を得ることはできない。

また、仏法だからといって、あらゆる教法を学び、身につけたところで、悟ることができなかったら、「他人の宝を数えても自ら半銭の分もなし」ということになる。ただいえることは、静坐をして道理を知ることである。

身体髪膚も父母の二滴。一息ついたかと思えば、死んで土になるこの身に、どうして執着することがあろうか。身も心も、十八界(じゅうはちかい)の寄せ集めにしかすぎない。常に自分の考えの至らないことを思い、用心して学ぶことである。

われわれの考え方とか執われというものを、仏教では十八界で説明する。十八界とは

  • 六根(ろっこん) : 眼・耳・鼻・舌・身・意 … 六つの聴覚器官
  • 六境(ろっきょう): 色・声・香・味・触・法 … 六つの感受する対象
  • 六識(ろくしき) : 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 … 六つの感覚認識の働き

つまり、六根、六境、六識が、各々相互に絡み合い、関係しあって、人間のもろもろの思いや、感情を生み出しているにすぎないといういことを知ることである。そうして、常に自己の浅はかさを思い、惑わされないで学んでいくことだ。潜在意識という心の執我を取り払うことだ。

「私心」を無くして、小さな幸せにひたってみる

道元禅師が言われた。

学童の心得は、まず律儀戒行を守り、威儀を改めれば、心も随って改まるものである。
初めは道心がなくても、強いて仏道を好み学んでおれば、ついには道心が起こるものである。
随って初心者は、早く学問を身につけて名を知られようなどと思わず、師や先輩や、みなに随って業道することである。

人間というものは、周囲にいる他の人の感化を受けやすい。だからなるべく、良い師、良い友を得て、共に学んでいけば、自然に道が得られるものだ。

自分がこの人はと思った師に出会ったときは、とことん惚れ込んでついていくことである。道を得るには、まず師を得ることが最大の条件である。

自分より少しでも秀れた人、良いものを持った人に出会えば、私心を無くして随うことである。

この人はと思ったら、相手がどうあれ、こちらが惚れ込んでしまうことである。相思相愛などを望むからうまくいかないのだ。一方通行の片思いの恋に徹することによって、師から叱られ、注意されても淡々として追随することができる。

米国の作家、ジョン・スタインベック氏の言葉に次の言葉がある。

「天才とは、蝶を追って、いつの間にか山頂に登っている少年である」

他の人から、高いところによく登ったものだと褒められても、少年はただ蝶を追ってきただけなのにと戸惑うように、邪念のない探究心がその人を伸ばすものである。

道元禅師の教えに随って生きて行く

今回は、公方俊良さんの著書「道元禅師の言葉」から4つの教えをそのままご紹介しました。

他にも心を揺さぶる数多くの教えがこの本にはあります。ぜひ手に取って読んでいただきたい一冊です。

わが人生、まだまだ悩み、そして惑い続けるであろうことは承知しています。
これからの人生も心の師とさせていただいている道元禅師の教えに随って心の平安を求めて生きて行こうと思います。

1つ私に足りないこととして、身近なところに師と仰ぐ方が今はまだいらっしゃいません。ぜひ今後の人生のなかで師と仰げる方とめぐり逢えることを信じて、一人ひとりとのご縁を大事にしていきたいと思います。

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