「自分の壁」 本当の自分よりも本物の自信を育てよう

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あのベストセラー本「バカの壁」の続編

今回は、養老孟司さんの著書「自分の壁」をご紹介します。

養老孟司さんはいろんなメディアにも登場されている有名な方ですので、ご存じの方は多いと思います。東京大学医学部の名誉教授で解剖学の名医でいらっしゃいます。そしてライフワークの昆虫オタクとしても知られています。

前著「バカの壁」は400万部を超える大ベストセラーとなりました。

その後、同じ新潮社から「壁」シリーズを数々出版されています。
私は、そのなかでも「バカの壁」「超バカの壁」、そして今回の「自分の壁」を読みました。

養老先生の「自分の壁」は、参考になる部分が随所にありましたので、記憶に定着させ実生活で生かせるように、そのフレーズを書き留めておきたいと思います。

自分は矢印にすぎない。本当の自分は最後に残る。

養老先生は、「自分」とは地図の中の現在位置の矢印のようなものである。と言われています。

ここ何年ものあいだ、世間では「個性」や「自己の確立」「オリジナリティ」といった欧米型の教育がもてはやされていますが、養老先生は、そんな考え方は、若い人に無理を要求するだけだ。それよりは世間と折り合うことの大切さを教えたほうがはるかにましである。としています。

結局、誰しも世間と折り合えない部分は出てくる。それで折り合えないところについては、世間とケンカをすればいい。それで世間が勝つか、自分が勝つかわからないが、それでも残った自分が「本当の自分」である。

「個性」「自己確立」という言葉だけが独り歩きしていて、世間と向き合うことができず、自分勝手な人間ができあがったり、「自分探し」という美化された言い方で世間から逃避する若者が多くなっていることを危惧されています。

エネルギー問題は自分自身の問題

養老先生は、エネルギー問題についても言及されています。

原発に賛成しているわけではないが、自然エネルギーを大手を振って素晴らしいとも言っておられません。今の太陽光発電の普及政策のことをこのように指摘されています。

自然エネルギーをあたかも夢のエネルギーのように語る人もいるようです。しかし、それは原発導入時の宣伝文句と実は全く同じです。1950年代において、原子力の平和利用こそが、エネルギー問題を解決する夢のプランだったのです。

核燃料の後始末のことを考えれば、太陽光発電のほうが原発よりはいい、というくらいのことは言えるのかもしれません。しかし、では太陽光発電に後始末の問題がないかといえば、そうとも言い切れない。たとえば、あの太陽光パネルが何年もつのかは、わかりません。

エネルギーについて真面目に考えるつもりならば、人にはどのくらいエネルギーが必要か、という根本の問題から考えないといけません。

本当に考えるべきなのは、「どの程度までのエネルギー消費ならば、みんなが我慢できるのか」ということのほうなのです。

現在の経済成長至上主義の社会から、持続可能な社会への転換が重要だということですね。今まさに世界ではSDGsによって目標を明確にして転換していこうという動きが出てきています。

私もSDGsの実現に少しでも貢献できればと思っています。

「自分」以外の存在を意識する

養老先生は、自分の意識、人間が作ったものから感じる意識は、基本的に疑ってかかれ、と言います。

自分の意識では処理しきれないものが、この世には山ほどある。そのことを体感しておく必要があります。常に「意識外」のものを意識しなくてはならない。別の言い方をすれば、「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを常にもっておいたほうがいい。

決して今の自分の考え、意識は絶対的なものではない。その視点を常に持っておくことです。

あふれる情報に左右されないためには、人間が意識的に作らなかったものと向き合うのがいい。結局は、なるべく自然に接するところから始めればいい。

自然に接することがほとんどない都会では、とりあえず便利なシステムの中で、時間を過ごせるようにはなっているが、そこで過ごす時間に誰もが不満や不安を感じている。

だからこそ、人間にはどうしようもない自然の摂理や自然の力がある、ということを今一度意識すべきなんでしょうね。

自信は「自分」で育てるもの

本書の最終章では、「自分」というものの本質を養老さんは語っています。少し長いですが、すごく重要な部分だと感じましたので引用します。

人間の脳は、つい楽をしようとします。それは現実を単純化して考えようとすることです。

仕事というもの自体が、本質的に「個」をつっぱるわけにはいかないものなのです。相手がなければ仕方がない。「そこまでやらなくていい」ような状況を背負いこむことも、また仕事です。

「他人のために働く」「状況を背負いこむ」というと、不安に思う人もいることでしょう。そんなことをしていては、自分の人生ではなくなるのではないか。会社の犠牲、家庭の犠牲になってしまうのではないか。割を食うのではないか、報われないのではないか。たしかに、そういう危険性はあります。

ここで重要なのは、自分がどこまで飲み込むことができるのかを知っておくことです。つまり、自分の「胃袋」の強さをしっておかなくてはいけません。この程度までなら消化できるが、これ以上になると無理だ。その大きさを意識しておくのです。

ではそれを知るためにはどうすればいいのか。やはり、絶えず「挑戦」をしていくしかないのです。あまりに安全策を採り続けていては、「胃袋」の本当の強さも分からないし、より強くすることもできません。

目の前に問題が発生し、何らかの壁に当たってしまったときに、そこから逃げてしまうほうが、効率的に思えるかもしれません。実際に、そのときのことだけを考えれば、そのほうが、「得」のようにも見えます。ところが、そうやって回避しても、結局はまたその手の問題にぶつかって、立ち往生してしまうのものなのです。

自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷う、ということなのです。

なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということをくりかえすことになります。しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。

これって若者だけじゃないように思います。私たちのような、社会で長年経験してきた中年組や定年リタイア組も、今の自分に疑問を感じながら生きている人が多いんじゃないでしょうか。そして「自分探し」に「逃げる」人が多くなっているような気がします。

でも、「逃げ」ると逆にどんどん厄介事がふえてくる。と養老先生はおっしゃいます。

目の前に問題が発生し、何らかの壁に当たってしまったときに、そこから逃げてしまうと結局はまたその手の問題にぶつかって立ち往生してしまうものなのです。

そういう私も、すでに50歳を過ぎて現職ではベテランとしてサラリーマンをしていますが、ふと「自分がやりたいことって本当はなんだ?」という問いを自分に投げかけることがあります。
今置かれている状況から「逃げ」たいからこんなこと考えるのか?

人生は一度きり。先祖からお借りしたこの命を存分に使い切って次の世代に渡したいものです。

養老先生の次の言葉は、不器用な自分に勇気と自信を与えてくれます。

いろんな揉めごとを、器用に要領や才覚で切り抜ける。そういう人に、つい言いたくなるのは、そういう人生っておもしろくないだろうな、ということです。

ここまで読んで、あの有名な仏教用語を思い出しました。

諸行無常 諸法無我

世の中のあらゆるものは、絶えず変化し続けていて、全てが無常の存在である。
自分は自己として存在するのではなく、互いの関係のなかで”生かされている”存在である。

さあ、生かされている「存在」である、この「自分」を使って今すぐに「挑戦」しよう!

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